現場の判断


・・よいことは「首脳部の英断」となり、悪いことは「現場の判断」と切り捨てられる。

東武伊勢崎線竹ノ塚駅の踏切で4人が死傷した事故で、踏切の保安係が業務上過失致死傷で逮捕された。この踏切は、通常は電車が近づいて踏切をおろすと自動的にロックされ、勝手にあげたりはできないようになってるんだけど、保安係は独断でロックを解除し、あげていたらしい。それまでもこうした「独断でのロック解除」は日常的に行なわれていたようだ。

・・こう聞くと、この事故の原因は「この保安係の男が安全に無頓着で内部の規定も守らないルーズな人間だった」ことであるようにも思える。だけど、そうなんだろうか。ほんとに、この保安係がすべて悪いのか。——ここは、「開かずの踏切」として有名なところだったらしい。特にラッシュ時には、1時間のうち56分は閉まっているという。ってことは、1時間のうちにわずか4分しか開かないわけだ。・・そういう踏切を、この保安係は2年前から担当していた。むろん、「慣れ」もあったろう。2年の間に、そういう状況に慣れて緊張感を失ったところもあったかも知れない。だが、それだけだろうか。そうした「個人が悪い」というだけの問題なんだろうか。

彼は毎朝毎晩、ラッシュになると大勢の人間や車がイライライライラと踏切を待ち続ける様を見続けてきたわけだ。ロックを解除して手動で上げ下げすれば、わずか数十秒でも踏切を開けることはできる。確かにロックの解除は緊急の場合に限定されており、これは内部規定違反になる。だが、踏切の保安係と見張り担当の2人が黙っていれば誰にもわからない。——考えて欲しい。内部規定通りに、どんなに踏切を使う人々が困ろうが1時間のうち56分間、踏切を閉め続けて、我関せずの態度をとるべきか。それとも、少しでも踏切を通そうと、電車が通る間を縫ってぎりぎりまで踏切を独断であげるべきか。あなたならどちらを選ぶだろうか。

事故が起きた今、メディアもそれを見た人々もこぞって「独断で内部規定違反を日常的に繰り返した」保安係を糾弾する。だが、もし事故が起こっていなかったら? 彼は、「内部の決まりを破ってでも、通行する人々の利便を優先した人」として見られたのではないだろうか。——彼は、有人踏切を18年も担当したベテランだった。だからこそ下した判断であったのではないだろうか。

世の中には、「その現場にいる人間でなければわからないこと」というのがある。そして、そのために「本当はこうすべきなんだけど、ここではこうすべきなのだ」という、現場の判断によってものごとが進められることもある。どの会社、どの組織にも内部規定のようなものはあるだろう。だが多くの場合、それは「お偉方が頭の中だけで決められたもの」で実情に全くそぐわない代物であったりする。そういう「杓子定規な決まり事と、現場での判断のどちらをとるか」というような決断を迫られることというのは、誰にだってあるはずだ。

常に「決まり事優先」を貫き、いわれた通りにすれば、その本人が問題となることはないだろう。たとえそのために、現場に大きな混乱をもたらしたとしても。現場を重視し、実際にことが行なわれているその場所でいかによい状況に導くかを考えるほど、現場の判断というものが重要になってくる。——だが、この「現場の判断」というやつは、もし問題が起これば、すべて「判断した現場の責任」となる宿命にある。すべては「勝手に判断した個人が悪い」ということで一件落着となる。それは正しいあり方なのか。

保安係は、日常的に内部規定違反を繰り返していたという。それを「だからこいつが悪い」で終わらせてしまったら話は進まない。なぜ、彼はそうしなければならなかったのか。そして、なぜ、それができてしまったのか。——本当に「人命に関わるような危険な規定違反」であったならば、それを察知する仕組みがなかったのはなぜなのだ。勝手にロックを解除し踏切を上げ下げしたことがすぐに検知されるようなシステムであれば、すぐに「なぜ、そんなことをした?」と問題となったはずだ。そこで「現場ではこういう状況なのです」ということがわかって何らかの対処を考えるか、あるいは「あくまでやってはダメだ」と指示されるか、あくまで続けて他の部署に配置換えになるか——いずれにせよ今回の事故には結びつかなかったのではないか。

かの「開かずの踏切」は、以前から改善の要望が強く寄せられていた。それを放置し続けた会社の責任者は何ら罪に問われず、「開かずの踏切」の現状に対応しようと現場で判断し続けた人間が罪に問われる。そういう世の中が、僕はキライだ。「誰が間違えたか」ばかりを追求し、まるで「失敗した人間がすべて悪い」かのように考える社会がキライだ。僕は、間違えるし、失敗する。人間だから。機械ではないから。

なぜ会社の考えと現場の考えが乖離し現状の問題を共有し合うことができなかったのか。なぜ間違いを予防するシステムが作れなかったのか。一人の現場の人間を糾弾するより、そのことを考える方が遥かに重要なのではないか。これらが変わらない限り、同じことは何度でも繰り返される。その度に、現場の人間が切り捨てられ続けるのだ。

公開日: 木 - 3月 17, 2005 at 04:19 午後        


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