大げさな建前


文春に販売差し止め命令。これは、果たして「報道する自由」の侵害、かねえ?

田中眞紀子議員の長女のプライベートな生活が書かれているということで、文春に販売差し止め命令が出たのは昨日のこと。あちこちで物議をかもしているね。文春は、「これは報道の自由に対する挑戦だ!」ってな感じで鼻息荒く捲し立てているけど、そうなのかなあ。

確かに、今回のは「報道の自由」について考えさせられる問題だと思う。だけど、はっきりいって「大問題」という感じがしない。いや、報道の自由の侵害ってのは大問題なんだけど、今回の件で、この伝家の宝刀を持ち出されると、どうもなんというか居心地の悪さみたいなものを感じてしまうのだ。

これが、ときの権力者に対する一大疑獄事件であるとか、そういう大事件であれば、誰もが体を張って「報道の自由」を守ろうって気にもなる。だけど、対象が「議員の身内のみみっちいスキャンダル」でしょ? はっきりいって、どーでもいいようなカスみたいな報道じゃん。報道する価値なんざミミズのしょんべんくらいしかなくて、それで傷つけるプライバシーのほうがはるかにでっかいという、「どっちかっていうと報道しない方がマシ」なものでしょうに。そんな程度のもんに対して「報道の自由」という、かくも大げさな建前を持ち出されると、なんとも対処に困る。「こいつら、恥ずかしくないんだろうか?」とかいう思いが先に立っちゃうんだよね。

もちろん、「対象がどんなに小さなものであれ、権利というのは守られなければならない」というご高説はもっともだ。でもね、一般の意識として、あまりにセコい喧嘩にあまりに大げさな主張を持ち出してくるってのはどうもねえ。

高い理想ってやつは、高い志のもとに使われないと。低い志のもとに使われると、せっかくの高い理想も次第に薄汚れてくる。今回の件で、「報道の自由」ってやつは、どうもうさんくさいぞ、という感じを持った人は少なからずいたに違いない。「要するに、自分たちのくだらねえゴシップ記事を擁護するための方便じゃねえか」と思っちゃった人は絶対にいたはずだ。

そうして、文春の主張は、報道の自由におけるオオカミ少年の「オオカミがきたぞ!」的ものに堕してゆく。くだらない、つまらないことで「報道の自由」ってやつを持ち出す度に、それは「オオカミがきたぞ!」という叫びにしか聞こえなくなってしまう。

そして。いつの日か、本当に「報道の自由」の危機がやってきたとき、誰もその叫びに耳を貸さなくなる。どんなに心ある人々が「本当にオオカミがきたんだ!」と叫んでも、誰もそれを信じなくなってしまう。そのことを、僕は何より怖れる。

子供の喧嘩にナイフや拳銃を持ち出しちゃいけない。くだらない喧嘩に大げさすぎる武器をもちだしちゃいけないよ。そういうのは、本当の、本気でやる喧嘩にとっておくもんだ。少なくとも、そういう喧嘩をやる気構えがあるならば、ね。——僕の記憶では、先の大戦で本当の「報道の自由の危機」が訪れたとき、文芸春秋はそれに対し戦おうともせず時の政権にこびへつらった企業の一つではなかったか? 文芸春秋に、石橋湛山率いる東洋経済新報のような気骨があったか? くだらない喧嘩をしている暇があったら、牙を研ぎなさい、牙を。

公開日: 金 - 3月 19, 2004 at 04:09 午後        


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