集団自殺する人


・・について書こうと思ったけど、考えてみれば特にいうことなんてないんだよね。

大きな事件のようでありながら、何の感慨もわかず、コメントもつけようがないことってある。——今日、2件の集団自殺があった。埼玉では7名が車で自殺。横須賀では2名が自殺を図った。いずれも練炭による一酸化炭素中毒だ。どっちもインターネットの自殺サイトで知り合ったらしい。——こういうのが困る。インターネットがらみだし、けっこう最近は立て続けに起きてるし、社会問題化しそうな感じだし、いうなれば「恰好のブログネタ」なわけだ。だけど、コメントが思い浮かばない。「ふーん、そう。以上」というぐらいしか出てこない。

強いていうならば、「もう、こんなの報道するの止めたら?」ということぐらいだろうか。——なんていうのかなあ、自殺というのを報道する意味ってのがよくわからなかったりするんだよね。まぁ、例えばガス自殺を図って爆発してマンションの上下左右の部屋にいた5名が死亡、とかいうならそりゃあ報道する意味はあるだろう。だけど、一人(でもないけど)静かに死にました、ということをそんなに報道する意味って何だろうか。

人は、死にたいときに死ねばいい。それは人間に与えられた当然の権利であると思う。もちろん、回りに迷惑をかけることなく、という条件付きだけど。けれど、世の中はそうではないようだ。「人が死ぬ」というのは、常に大事件であるらしい。殺人や事故ならそれはそうだろう、だけど「自分で死にたいので死にました」というのがそんなに大事件なのだろうか。

自殺といってもいろいろある。経済的に苦しくて、とか、病気を苦にして、とか、そういう自殺が多発するのは、それは確かに何らかの形で報道する必要があるだろう。それは世の中のひずみが弱者にしわ寄せされているという証でもあるのだから。——けれど、今回のような、いってしまえば「とるにたらない自殺」については、報道する必要がよくわからないのだ。

そう。これは「どーでもいい自殺」だ。僕はそう思う。なぜなら、本当に何らかの切羽詰まった理由で死を選ぶならば、「みんなで集まって死ぬ」必要などないからだ。死ぬことなど、一人で勝手にできる。「同じような仲間が集まらないと死ねない」というのであれば、それは別段、どうしても死ななければならない理由もない、どーでもいい自殺なんだと思う。別に、そんなことで死ぬ人間がバカだとは思わない。人それぞれ、それで死にたいと思うならどうぞ死んで下さい、としかいいようがない。僕の価値観からすれば「全くの無駄」だけど、それはあくまで僕の価値観だし、それを他人に押し付ける気もない。本人にとっては別の価値観があったんだろう。それに基づいて死んだ、それはそれでいい。何も付け加えることなんてない。

冷たいようだが、少なくとも、死ぬことさえ一人で満足にできない人間が、生きることを満足に行なえるとは思えない。死ぬということまで、最後の最後まで他人任せな人間がまっとうに生きていけるものか。——そう考えれば、まぁ「死んで正解」といえなくもない。

「お前は冷たい」「集団自殺する人がどういう気持ちか全くわかってない」という意見は、「その通りです」としかいいようがない。基本的に、人には「どうしても理解できない相手」というのがあるものだ。それは、「理解してもらおうという努力を放棄した人間」である。そうした人間を理解するのは至難の業だ。僕には、そうした暇もなければ義理もない。だから「勝手に死ねば」としかいいようがない。それは別段、冷たいわけではないだろう。社会へ受け入れてもらうことを放棄したのは向こうなのだから。

ちなみに、これから集団自殺を考えている方。あれは、かなりみっともないものです。死について何やら淡い幻想を抱いている人間が多いようだけど、あの死に方は、「楽」かも知れないが、悲しいほどに「情けない」見た目になることは知っておきましょう。あなたの亡骸は、悪魔も落涙するほどに情けない姿となって人前に晒されます。——ま、死ぬんだからどれだけ自分がみっともない姿になろうとかまわないだろうけどね。一応、「死んで恥の上塗りをする」ってことぐらいは知ってから死んだ方がいいよ。

公開日: 火 - 10月 12, 2004 at 11:26 午後        


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