感動させたい人々


日テレの視聴率事件に絡んで、夕刊に倉本聰氏が意見を書いてあったんだよね。
それを読んで思ったわけ。なるほど、だからこの人のドラマは違和感があるのか、って。

倉本さんといえば「北の国から」なんかで超有名な脚本家。北海道に住んで、なんとか塾とかやって自然の中の暮らしを実践していたりする人。——で、この人が夕刊にこんなようなことを書いていたわけだ。

「私は人々を感動させようと一所懸命にやっている。視聴率操作はそういう人間の努力をぶちこわしにしている」

——いや、これはオレの言葉で書き直したんであって、倉本さんはもっと上品におっしゃってたよ(笑)。それを見て、なるほどと思った。「そうか、この人は、人を感動させようと思って脚本を書いているのか」って。だから「北の国から」を見た時、どこかしら違和感を感じたんだな、と。

よく、芝居でも映画でもドラマでも「見てくれた人を感動させようと一所懸命頑張りました」的なコメントをする人、けっこういるよね。まぁ、それは多分、「そのぐらい頑張りました」といいたいんだろう、とオレは好意的に解釈しているんだけど、中には本気でそう思っている人もいるんだろう。

「見た人を感動させようと思って作った」というと、とてもすばらしいことのように思える。でも、これを少し言い換えて、「見た人が感動するように設計して作った」とかいわれると、なんかイヤだよね(笑)。でも、いってることは同じだったりするわけで。——感動するかどうかはこっちの問題で、作った人間にああだこうだいわれる筋合いのもんじゃない。それが、作った側に面と向かって「あなたが感動するようにオレは作ったよ。どうだ、ちゃんと感動できただろう? そう作ったんだからな」とかいわれると、どうも困る。自分の感動を計画的に設計デザインされたとしたら、そりゃ誰だってイヤだろう。

うーん、どこか言葉が足りないな。つまりね、「感動させたい」というのは、言葉としては美しいけど、でもそれは「ものを作る正しい理由」ではないような気がするんだよね。では、ものを作る正しい理由ってのは何なのか。これは、前に他のコラムでも書いたんだけど、その理由はただ一つだ。

「作りたくて作りたくてどうしても我慢できなくって作っちまった」

これだよ、これ。これ以外に、ものを作る正しい理由なんてない。オレは作りたくってしょうがない。もうそれ以外のことなんて考えられない。だから作っちまった。文句あるか。——それが「ものを作る」ってことの、正当なる理由だと思うんだよ。もし、そこに「作った作品を見た人がどう感じるか」なんてことを忖度しているようなら、それは「不純な動機が混じっている」のだと思う。本当に作りたくてしょうがなくて、脇目も振らずに作っていたなら、とてもそんなことなど考える余裕なんてないはず。

倉本さんの作品って「北の国から」ぐらいしか思い付かないんだけど、あれを見ていると、見る側に『ほら、こういうことをオレはいいたいんだよ』という倉本さんの押しつけがましい気持ちをイヤというほど感じてしまうのだ。いや、作品はとてもすばらしいと思うよ。見て、オレも感動したよ。でも、「見た人が感動するように作った」んだよね、倉本さんは・・。

作品を見たお客のことを考えて作る、ってのは大事なんだろう。だけど、それは後から付け足しで「そういえばそういうことも考えてたよな」とかいう程度のものであって欲しい。作ったあんたに、見たオレの気持ちまで考えて欲しくない。——そう思うのは、やっぱり天の邪鬼なのかなぁ。


うーん、まだなにか足りない。また今度、続きを思い付いたら書くことにしよう。

公開日: 火 - 10月 28, 2003 at 06:15 午後        


©