「誰のため」と「何のため」
小説は誰のために、何のために書かれるか、ということを考えてみたりして。
長い間、懸案だった「死霊」を読み始めている。あの、埴谷雄高の、あれだ。基本的に小説というのは「読みたい」と思ったらすぐに読み出すのだけど、前々から「読みたい」と思いつつもなかなか手が出せない小説が2つあった。その1つが、この「死霊」だった(もう1つは、大西巨人の「神聖喜劇」であります)。その昔、まだ子供だった頃、父の書棚の一番奥に「死霊」のハードカバーがずらっと並んでいて、その字面といかめしい本の装丁から、「これは大人になってもっと立派にならないと読めないものなのだ」という刷り込みがなされていたらしい。爾来、読む機会はあってもなかなか手が出ずにいたのだ。
で、まだ第2章にはいったぐらいなんだけど、予想通りというか、実に読みにくい。観念的な説明が多いこともあるけれど、言葉遣いというか文字使いが古めかしく、なかなかすんなりと読ませてくれないのだ。「こんな活字、20年ぶりに見たぞ」というような(笑)なじみのない文字がごろごろしていて、日頃、ヤワヤワな文章しか読まなくなってるなぁオレ、なんてことを痛感するのでした。
小説というのは、作品でありエンターテイメントであると同時に、「言葉の保管庫」としての役割をも持つ。多くの人が忘れた、あるいは使わなくなった、だがしかし日本語としてとどめておくべき言葉をその作品の中に保存し人々にその存在を知らしめるのも小説家の使命の一つである。だが、そうした表現は往々にして読者には受け入れられなかったりする。だが、読者がやすやすと受け入れられる表現だけを取り扱っていたのでは、それなりの平凡な文章しか紡ぎだせはしない。小説というのは読者のためにあるといってもよいが、しかし読者のためだけにあるわけではない。
そしてこれは、小説に限らずどの分野でもいえることなのだろう。どんな仕事であれ遊びであれ趣味であれ学問であれ、「誰のため」のものか、ということと「何のため」のものか、ということは必ずしも完全に重なるものではない。——僕は物書きであって、コンピュータの解説書の類いを書いているけれど、誰のために書いているのかということと、何のために書いているかということとは厳密には違っている。おそらく、どちらが正しいということではなく、両者のバランスというものが重要なのだろう。どちらか一方に偏ったとき、それは誤った方向を向きかけているのかも知れない。
正直にいって、「死霊」は、作者の「何のために」という方向にかなり偏っている感がある。が、少なくともその偏りを作者はよくわかっていて、わかった上で敢えてその偏りを是正しない道を選んでいるようだ。そこにはそれなりの意図があるのだろう。そう思って読めば、この読みにくい物語もなかなかに面白そうだ。
(・・で、確か1巻目だけ買って、それもどこかにいってしまったままになっている「神聖喜劇」はいつになったら読まれるのだろう??)
公開日: 金 - 7月 16, 2004 at 09:41 午後