日本語は誰のものか


・・を読んだ。「美しい日本語」「正しい日本語」を知りたい人にはおすすめ。

しばらく前から気になっていた本を昨日読了した。それは「日本語は誰のものか」という本。前にちらっと新聞の書評で紹介されていたのを見て気になっていたのだ。

昨今、「美しい日本語」だの「正しい日本語」だのといった本が氾濫している。この本をAmazonで検索したときも、ボーダイな「日本語なんたらかんたら」という本が出てきて驚いてしまった。タイトルがうろ覚えだったので「このン百もの中から探さないといけないのか・・」とうんざりしたぐらいだ。(だいたいいつ頃出版されたというのを覚えていたのでなんとか見つけ出せたが・・)

こうした「美しい日本語、正しい日本語」ブームというのが、僕にはどうも不快だった。「美しい日本語を覚えましょう」などという言葉に「なにをおせっかいな」とつい思ってしまうのだ。それは、僕自身がこうした「美しい日本語賛美者」にふと気がつけば堕してしまいかねない人間であることに起因しているように思う。——文章を書くのが仕事であるせいか、どうもつい言葉、それも日本語というものについて偉そうなことをいってしまうところがある。偉そうに立派そうに現代の乱れた日本語を批難し、正しい日本語、美しい日本語を賛美するようなことをしていたりする。そのことがわかっているだけに不快だった。イヤな自分の姿を見せられているような感じがするのだ。

この「日本語は誰のものか」は、ちまたに氾濫する「美しい日本語、正しい日本語」を勧める本とは一線を画するものだ。この本では、「そもそも美しい日本語、正しい日本語というものは存在するのか?」という根本的な部分に疑問を投げかける。——「正しい日本語」という言葉は、まるでただ一つの「これが正当なる日本語である」というものが存在しているかのような錯覚を僕らに抱かせる。そして「正しい日本語」とされたものをみんなが使うのが当たり前であり、それ以外の日本語は「正しくないもの」として使わない方がいいんだ、という感覚を僕らに植え付ける。

だが。今までの長い日本語の歴史の中で、「日本国でただ一つの日本語だけが正当なものとして存在した」ことなどないのだ。明治に至るまでの間、日本では各地で異なる日本語(方言と呼ばれる)が使われており、「これが日本全国で共通のもの」などというものは存在しなかった。そもそも今の日本の国土内には日本語の他にも、かつてはアイヌ語もあれば琉球語もあったのだ。

それが明治以降に、政府の政策により強制的に作り出されすべての国民に無理矢理しゃべるよう押し付けたのが「標準語」と呼ばれるものだ。これは決して「日本全体のさまざまな方言からもっとも一般的な形を抽出したもの」ではない。もちろん、最初に「標準語」たる日本語があって、そこからさまざまな方言が生まれたわけでもない。

明治時代、「たまたま政府の中心があった東京の上流層が話す方言(山の手言葉)」をそのまま「これが標準だ」として日本中に押し付けただけなのだ。アイヌは同化政策により日本語(標準語)を話すよう強制され、琉球語は琉球王朝の滅亡とともに「方言の一つ」にされてしまった。そして方言追放が政策として定められ、各地の方言は汚いもの、標準語こそが美しいもの、とされてしまった。いつの頃か、多くの人は「日本には、ただ一つの正しい日本語というものが存在する」と錯覚してしまった。

言葉は生き物だ。世相、時代、地域、それらによって常に変化していく。住む土地が違えば言葉も違うし、生きている時代が変われば言葉も変わる。世代によってさえ使う言葉は変化する。それが言葉というものの本質だ。——人は、常に「自分たちが正しいと信じているものこそが唯一無二の正しいものなのだ」と思いたがる。そうして、現在の世の中で力を握っている世代(つまりは若い無力な世代ではなく、働き盛りや権力を手にしている世代)が「自分たちが正しいと習ってきたことが正しいのだ」と考え、それに合わないものを「間違ったものである」と糾弾する。だが、そもそも言葉に「これが正しい」などというものがあるわけがないのだ。

「文法というのがある。文法にはずれたものは誤ったものなのだ」という人もいる。だが、間違えないでほしい。「文法のために言葉がある」のではない。文法をもとに日本語が生み出されたわけではない。まず日本語があり、そこからエッセンスとして抽出したのが文法なのだ。従って、言葉が変われば文法だって変わる。決して唯一無二のものにはなり得ない。

だいたい、江戸時代と今の時代でさえ、日本語の文法は大きく変わっている。「美しい日本語・正しい日本語」を主張する人も、「今の日本語は間違ってる、大和時代の日本語こそが正しいのだ、この時代の日本語に戻すべきだ」などというバカはいまい。——では、いつの時代の日本語が正しいのか。つきつめれば、それは結局「自分の世代の日本語が正しい」ということ以外のナニモノでもないことに気づく。例えば、「この時代の日本語が正しいのだ」というものがもし決められたなら、それではこの先千年後も二千年後もその言葉を使い続けるというのか。冗談ではない、そんなことがあってたまるものか。

結局、言葉の正しさ、言葉の美しさなんてものは、「自分にとっては、自分の言葉が一番正しく美しい」という以上のものではないのだ。「美しい日本語」「正しい日本語」という言葉は、常にその冒頭に「私にとって」という枕詞が省略されている。「誰にとっても普遍の『美しい日本語』『正しい日本語』」などというものは、この世に存在しないのだ。

僕は、今の若者の言葉遣いがキライだ。汚いと感じるし、絶対に使いたくはない。だがそれは、「だから自分の日本語こそが美しい、正しい」ということには断じてなり得ない。ただ単に「僕にとって美しいのは、僕が美しいと思う日本語だ」というだけでしかない。——「そうはいっても、多くの人が美しい、正しいと思うものがあるはずだ」と考える人。その「多くの人」は、年を経るごとに変化することを忘れてはならない。あと30年もすれば、今の「正しい日本語」を主張する人々はあらかた死んでしまい、現在乱れた日本語をしゃべりまくっている世代が「多くの人」となるのだ。そして、彼らもまた間違いなく「近頃の若いやつの日本語は・・」といっているに違いないのである。

「正しい日本語」「美しい日本語」——その主張の向こうに、僕はどこかしらキナ臭いものを感じる。全体主義的な、国家中心的な、日本国万歳的な、昔に戻せ的な、なんともいえないいやらしい空気を感じるのだ。「さあみんなで美しい日本語、正しい日本語を練習しましょう、みんなでそうした言葉をしゃべるように心がけましょう」というものの向こう側に、どこかしら「イヤな時代がひっそりと近づいてくる足音」みたいなものを感じるのだ。気のせいなのか?・・そうかも知れない。だが、気のせいであっても、その風潮が蔓延するのは僕にはとても気に入らない。

だから、僕はここで声を大にしていいたいのだ。「唯一無二の正しい日本語、美しい日本語などというものは存在しないのだ」と。言葉はいつの時代も「みだれる」ことで進化してきたのだ、と。——もし、「正しい日本語、美しい日本語」というものに興味がある方は、是非一度読んでみてください、「日本語は誰のものか」を。

公開日: 火 - 5月 10, 2005 at 04:40 午後        


©