日本と中国の間に横たわる問題
・・とは、実は「歴史的な認識」などではない。
この週末も中国の反日デモがやまなかった。これは当分、続きそうだね。——それにあわせて、ネットの世界でも反日デモに関する記事や書き込みがずいぶんと多くなった。そしてあちこちで「日本はいつまで中国に謝ればいいんだ!」とか「竹島は日本の領土だ!」とか「従軍慰安婦は教科書から削れ!」とか、その他もろもろの反日デモ(をいいことに我が日本国の正当性なんてもんがあるかどうかも怪しいけどを主張し大和魂ぷぷっ笑っちゃうよね今時を鼓舞しちゃるぜ)関連の主張がWebをにぎわせている。それを見ていて、なるほどなあ、と思った。これ、そのまんま、中国のデモ隊が過激化し暴徒になっていく過程と同じだよなぁ。立場は正反対だけど、なんか反応がまったく同じなんですけど。もしかしてお友だち?
中国や韓国と日本との間に横たわる問題。それは「歴史的な事実」についてだと人々は思っている。が、そうなんだろうか。竹島は日本の領土か韓国の領土か、それが客観的にきちんとわかれば問題はなくなるのか。あるいは従軍慰安婦や南京大虐殺についての歴史的な資料がどっと見つかって両国の間で「これが真実だ」ということが認め合えれば問題は消えるのか。誓ってもいい、絶対にそれはない。ただ単に、「古い問題が消え、新しい問題が持ち上がる」だけだ。
両者の間にある「問題」や「事実」についてどんなに口角泡を飛ばして議論しあっても、問題は絶対に解決できない。なぜって、問題は、そんなことではないからだ。なぜ、そんな単純なことをみんな考えないのだろう。
韓国・中国と日本の間にある問題、それは「何が事実か」ではない。「お互いが、『あいつはキライ』と思っていること」である。どちらが正しいかなんてそんなことは本当はどーだっていいのだ。人間は、「あいつがキライだ」と思うから、相手にとって都合の悪い問題をわざわざ見つけ出して持ち出してくるのである。お互いが相思相愛になれば、そんな問題なんてどうでもよくなるのだ。
人は、何か疑問なこと、「これは間違いじゃないか?」というようなことがあると、始めのうちは「自分の持っている知識と見識に誤りがないのか、みんなの意見を聞いてみよう」という感じで話し始める。が、人間というのは「それが事実かどうか」よりも「それが自分にとって心地よい事実かどうか」を優先してしまいがちだ。数多ある事実の中から、無意識のうちに、自分にとって都合のいい事実をピックアップし、都合の悪い事実を排除して自己の考えの補強を試みてしまう。
そうして、気がつけば「事実」を集めるつもりが「相手への反感、憎悪」ばかりを集めていることになってしまう。「何が正しいか」は次第にどうでもよくなり、「キライな相手をやっつけるための事実は何か」ばかりを集めて回るようになる。そしてお互いに相手を攻撃するための手ゴマばかりが蓄積されていく。今、日本と中国の自称愛国者たちの間で行なわれていることというのは、まさにそういうことじゃないのか?
外交官でも政治家でも総理大臣でもないごく一般の人が、ネットや公開の場でさまざまな意見をあげ議論を行なう。それは、なにより自己の洞察を深めるためのものであるはずではないか。それなのに、自分を肯定するものばかりを集めて「そうだそうだ!」とオダをあげるような姿ばかりが目につくのはどういうわけか。自分とは相容れない考え方や意見にこそより注意深く耳を傾け、それを理解するようにしてこそ、本当に自分の考えを深めることができるはずなのに。
決して結論のない論争、それは「相手をより理解した方が勝つ」のだと僕は思っている。表面上、相手が正しいという結論になったとしても、最終的にどちらにより大きなメリットが得られたかはまた別だ。だいたい、恋人どうしとか夫婦間の喧嘩にしたところで、「わかった、こっちが悪かったよ」といったほうがたいていは勝つのだよね。人間と人間の間の争いごとは、より度量が大きいほうが勝つものなのだ。そうじゃない?
公開日: 月 - 4月 18, 2005 at 03:02 午後