同じようで違うもの


微妙な表現というのは、どこかで本人の「こういう方向へ誘導したい」という思想操作的な気持ちが込められてるもんだね。

またもイラク人質3人解放のニュースからであります。昨日も書いたけど、あちこちで「3人の自己責任」を問う声が上がってる。特に政治家、自民党内からあがっているのが怖い。特にニュースでやってて「うーむ」と思ってしまったのが、自民党の島村のおじさん。彼の言い方が実にがっくりときたのでした。3人の行動を評して「遊泳禁止の立て札がある場所で泳ぐようなものだろう」だそうです。

この発言を聞いて、「なるほど、うまいこというなあ」と思った人、いるだろうか。僕が真っ先に感じたのは、そこに含まれている「微妙な悪意」だった。いや、3人への批判のことをいっているのではなくてね、「微妙に自分の思う方向へ誘導しようとする表現」に悪意を感じたのだ。

退避勧告が出ている場所へ出かけていって事件に巻き込まれた、それを喩えて「遊泳禁止の場所で泳いだようなものだ」と表現する悪意。——え?「まぁ、だいたい似たようなものだから別に悪くはないんじゃない?」って? そうだろうか。僕なら、多分、こう喩えるな。「遊泳禁止の立て札のある場所で人が溺れているのを飛び込んで助けようとしたようなもの」と。彼らは、別に伊達や酔狂で飛び込んだわけではない。そこにまさに溺れている人がいる、それを見過ごすことができずに思わず飛び込んだんじゃないだろうか。違う?

島村おじさんの喩えを耳にすれば、「確かに飛び込んだ奴が悪いよな」という感じがする。けれど、僕の喩えだと、「それで飛び込んだ奴が悪いってのはひどかないかい?」という感じがするでしょ。「喩え」ってのは、結局「喩え」でしかなくて、実態を正しく表現しているわけではない。「なんとなく、だいたい近いもの」でしかない。この「だいたい近いもの」というのが実に問題なのだ。そこにほんのちょこっと「こっちが誘導したい方向」のエッセンスを加えることで、その喩えは小さな「思想誘導」の道具となる。

前に「わかりやすさ」について書いたけど、「平易にして説明する」ということは、本来の意味とは違うものを伝える危険が常につきまとう、と僕はいった。こうした、何気ない「喩え」にもそれはいえる。複雑な事件を、しごくシンプルな構造の喩えにいいかえて説明することで、聞いた側はなんとなくわかった気になる。が、わかったのは「本来の事件」そのものではなく、あくまで説明者が「喩えた事件」なのだ。だがそこで「だいたい近いもの」というイメージというか思い込みにより、聞いた側は自分が「それにより本来の事件を理解したのだ」と錯覚してしまう。

新聞、テレビ、インターネットと、現代は情報の洪水だ。だがそのほとんどのものは、こうした「小さな情報操作」「小さな思想誘導」「小さな洗脳」を含んだ形で流されている。そのことを僕らはもっと意識して情報と接しなければいけないな、と改めて思うのでした。——ちなみに、このTuyano Blog.も、トーゼンながら僕の誘導したい方向への微妙な軌道修正の意図を含んだ形で書かれております。くれぐれも信じないように。

公開日: 土 - 4月 17, 2004 at 05:49 午後        


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