神前結婚は輸入品?


・・だったという。日本の文化の多くは輸入品だったりするんだよね。

何がきっかけか忘れたけど(確か神父と牧師の違いを調べてた気がする)ネットであれこれ検索をしているうちに、「日本の結婚式」に関する話を見つけ、嫁と2人して面白がって読んでいた。それで初めて知ったのだけど、日本の神道による「神前結婚」というのは、実は日本の伝統的な儀式ではない、らしい。まぁ、きちんと調べてみたわけではないのだけど、どうやらそれは確かなようだ。

神前結婚というのは、明治後期に大正天皇の婚礼のために、欧米のキリスト教による結婚式を参考にして人為的に作られたものだという。それを真似て、世間一般に広がったのが、あの神主さんがお祓い(?)して玉串を奉納する、神前結婚だという。つまりはたかだか百年程度の歴史しかない、「日本の伝統的な儀式」とは無縁のものだというのだ。

更には、葬式というのも実は仏教本来のものではなく、キリスト教の葬式を取り入れて生まれたものだという。——そういわれれば、確かに古代の日本や中国では葬式などというものはなかった。結婚にしたところで、嫁さんがやってきて身内やご近所を招いて三三九度をして高砂やを唸って、後は飲み食いして騒いで・・というようなものだった。それすら平安や大和時代にはなかったわけだし、確かにこの種の「式」というのは、日本の古来の文化とは相容れない感じはある。

日本の文化というのは、大半のものが「よそからの輸入品」だ。独自のものというのは実は大して多くはない。それをもって「だから日本の文化なんてたいしたことはない」という人もいる。だが、それはどうなんだろうか。——日本の文化の面白い点、それは「外国から輸入したものを、ものの見事に日本流にアレンジして自分たちのものにしてしまう」というところだろう。それはそれで、素晴らしいことだ。あくまで他所から来たものをすべて拒否し続けていたら素晴らしい文化は花開かない。元となるものは外国からのものであっても、それを素晴らしいものに発展させたのであれば、それは日本が誇るべき文化といってよいはずだ。

僕らは、「オリジナルなもの」というのを無条件にありがたがるようなところがある。自分だけの力で生み出したものを「すばらしい」と考え、他のものをアレンジしたものは「オリジナルより劣る」と考える。多くの場合、それは「どちらのほうがより優れているか」を考えることなく、そう判断されてしまう。——だが、それは正しい感覚なのだろうか。

無論、何もないところから独自のものを生み出すのはすごいことだ。だが、人間は果たして「完全に自分だけの力」で何かを生み出すことって本当にできるのだろうか。自分ではそう思ってはいても、人間は、生まれてから今までの間に「他所から得られたさまざまな情報」によって自分の考え方、ものの見方などが形成されてくるのだ。僕らが身につけているすべての知識は「他所から仕入れたもの」だ。オリジナルなアイデアであっても、必ずその原型となるもの、参考となるもの、きっかけとなるものは他所から得ている。人は、物真似することによって成長するのだ。

日本には、ある種の「オリジナル信仰」のようなものがある。自分たちが外国から「物真似」呼ばわりされることが多かったせいか、オリジナルというものを熱烈にありがたがるところがある。それが悪いとはいわないが、世の中には、アレンジであっても実に優れたものもあるし、劣悪なオリジナルだってあるのだ。——例えば、日本の「家制度(家長制度)」というのも実は明治に欧米から輸入された考え方であるというのだが、たとえ日本のオリジナルであったとしても、あんなものを「立派なもの」と認める気には全くなれない。オリジナルであるかどうかと、それが立派なものかどうかは無関係だ。「すぐれたアレンジ」より「ダメなオリジナル」を無条件にありがたがることは正しいことだろうか。

「オリジナルだからすぐれている」のではない。「すぐれているものにはオリジナルが多い」というだけのことなのだ。そこんとこ、勘違いしないようにしなくてはね。

公開日: 土 - 3月 5, 2005 at 03:42 午後        


©