正しいことはいつでも正しい?


・・わけでもない。TPOを考えない「正しさ」は迷惑だったりする。

ときどき巡回している開発関係のメーリングリストがいくつかある。そこで、とある参加者の署名と引用についてトラブルが発生していた。その人は、メールの署名に自分の会社の製品だのURLだのをごちゃごちゃとつけていて「宣伝の場に使うな」的な苦情が出ていたらしい。また引用も相手の一部をピックアップして記述するのではなく、全部の文をそのまま引用としてつけて送るため、ちょっとした文だけでもその後にずら〜〜〜っと長い引用がくっついてくる。「無駄な情報が多い、もっと整理しろ」とこれまた苦情が出ているのであった。

その人は、「自分はすべてのメールで署名を統一している、それに署名から自社の製品を知ったという人もいるから無駄な情報とは思わない」「一部だけを引用するより、そのメールだけでそれまでの経緯全てが分かるよう全部を引用としてつける方がわかりやすいはずだ」と、要するに自分はそれが正しいと思ってあえてそういう行為をしているらしいのだね。が、問題なのは、そのメーリングリストでは、そうした「宣伝まがいの署名」や「整理していない全文引用」はマナー違反として慎むようにとされていたのだ。そうなると俄然、その人の立場は弱くなる。で、かなりあちこちから叩かれていた、というわけ。

ま、どっちが正しいかというのはここでは考えない。どっちもそれなりの意見があるわけだしね。これを見ていてつくづくと思ったのはこういうことなのだ。つまり、「たとえ正しいことでも、それを実行するにはTPOがある」ってこと。

僕個人としてはこの人の考えが正しいと思ってるわけじゃないけど、まぁこの人はあくまで「自分は正しいことをしている」と思っているのだろう。ただ、その場所ではそれはマナー違反なのだ。彼の意見が正しいか否かということとは無関係に、「ここでは、これは悪いことと決めますよ」という場なのだ。そこで「確かにそう決まっているけど、でも僕は正しいことをしてるはずです」といっても、そりゃあ通らないだろう。

正しいということは、いついかなるときでも正しいわけじゃない。時として人間はそういうことを忘れてしまう。例えば、公の場所での喫煙は周りに迷惑になるけど、新幹線の喫煙車両に乗って周りに「喫煙は迷惑です、止めて下さい」といってもそれは通らないよね。「家族の中で秘密は持たないように」というからといって何の留保もなく「パパ、癌であと1ヶ月の命だって」などと暴露されてはかなわないでしょ。「正しいか否か」ということと、「それをこの状況で行なうべきことか」は別の問題なのだ。

僕らは、学校やら親やらどっかの偉い人やらからいつも「どんなときでも正しいことをしなさい」的な教育を受けてきたような気がする。「そのときの様子を見て態度を変えるのはよくない、正しいと思うならどんなときでもそれを行なうべきだ」的な。だが、それは間違いだ。「状況を無視した正義の行使」は、時として何もしないより遥かに大きな迷惑になる。

まぁ、署名の問題とかはいうなればマナーの問題であって、正義などという大げさなことではないだろう。けどね、もっと大きな「正義」というようなものであっても、やっぱりそれは「状況」を考えなければただの迷惑になることだってあると思うのだ。

例えば、別の掲示板だけど、最近、あちこちでクマが人里に出没している問題で「飢えてるんだから餌をやればいいのに」という意見が出ていた。一般的な感覚からすれば「動物が空腹で苦しんでいる=食べ物を上げましょう」というのは、間違ってはないだろう。けれど、「困って人里まで降りてくるようになったクマ」だからそういう考えが出てくるだけなんだよね。それじゃあ、日光で観光客を襲うようになった猿たちや、ゴミ収集所に集まってくるカラスたちに「飢えてるんだから餌をあげましょう」といって通用するか?といえば、そりゃあ無理だ。——クマは個体数が減って絶滅に向かってる、それと増えすぎて困ってる猿やカラスを一緒にするな、というかも知れない。そうなのだ。「増えすぎて迷惑している動物」と「絶滅に瀕している動物」では、「正義」は別のものになるのだ。同じ正義は通じないのだ。

「人の命は大切だ。いかなる場合もそれを奪ってはならない」——そんな、おそらく人間にとって最も重要な正義であっても、それは時と場合によって変化する。例えば、オームの松本智津夫や、池田小の事件の宅間守については多くの人が「死刑にしろ」すなわち殺すことを容認する。またテロリストを発見し殺すことは正しいことだと多くの人が考えていたりする。人の命という人間にとって根源的な正義でさえ、時と場合によっては通じなくなる。

それは誤りだ、多くの人がそういう中途半端な考えであることに問題があるのであって、やっぱり正義はいついかなるときも正義なんだ。——そう思う人はどれぐらいいるだろうか。どちらの考え方が正しいのかはわからない。ただ、「いついかなるときも正しいことは正しい」と思うより、「どんなに正しいことであれ、状況によってはそれが正しいものでなくなることもある」と思った方が、世の中はきっとよりよいものになる。なぜなら、そう思うことで「正義の相対化」ができるからだ。

人間は、それが絶対的なものであると多くの人が思い込んだ瞬間、それが正しいものかどうかという検証がなされなくなる。それは疑うことを許されなくなる。それが僕は何より怖い。「絶対的に正しいものはない」と思えばこそ、人はどのようなことも検証しそれが正しいかどうかを考えるようになるんじゃないだろうか。

正しいと思ったことは未来永劫いついかなるときも正しい。そんなはた迷惑な正義は、この世の中にいらない。

公開日: 水 - 10月 27, 2004 at 04:08 午後        


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