発言し続けるということ
・・その難しさと素晴らしさを教えてくれた人たちに、哀悼の意を。
ちょっと前のことになっちゃうけど、劇作家のアーサー・ミラーが亡くなった。名前は知られてはいても、日本ではあんまり作品そのものが有名というわけでもない感じだったけど、でも一つの時代を築いた人だったろうと思う。——また先月末になるけど、米国の評論家スーザン・ソンタグという人も亡くなっている。全くジャンルは違うのだけど、この2人は僕の中で何となく同じグループのイメージがあった。それは「社会に対し負っている責任」のようなもの対する感覚、といえばいいだろうか。
ミラーの作品は、社会に対する鋭い批判から生まれた。その昔、米国のマッカーシズム(共産主義弾圧)に対する批判として、魔女狩りを題材とした「るつぼ」という作品を書いたのだけど、かの9.11のテロ以来、米国の人権を制限しようとする空気を批判し、この「るつぼ」を再演していたという。またソンタグはイラクへの派兵に強く反対表明をしていた。イラクにおける米兵の虐待写真など戦争写真とそれを見る我々の側に関する「他者の苦痛へのまなざし」という作品が遺稿となった。二人とも、最後まで、自分たちが住むこの社会に対する批判と発言をし続けた人たちだったと思う。
日本では、著名人が社会的な発言をすることに対するある種の不快感のようなものがあるように思う。そしてそれが故か、著名人は社会的な批判などの発言をあまりしないのが美徳のように思う人が多いような気がする。——例えば、小説家などを見ると、昔と違って今や多くの小説家は「文化人」然としてテレビや雑誌に露出しまくっている。そうしていかにも立派そうな発言をして回るのだけど、「今の社会に対する批判」というようなものに関しては、見事なぐらい口にしなかったりする人が多い。イラク戦争に賛成か反対か、そうしたことをあえて表明しようとする人はごく一握りだ。「文学という芸術を追求するのが立派な小説家であって、そうした世俗のことに嘴を入れるような下世話なことはしないのだ」的なものを感じてしまうのだ。
名前が売れ、その人の言動が注目されるということは、すなわち「力」を持つ、ということだ。そうした力を得た人間には、今の世の中の有り様に対し発言する責任があるのではないか。どんなに世の中に対し何かを訴えたくとも、全く誰もその声を聞いてくれない我々普通の市民に代って、「この世の中はかくあるべきである」と発言する。それは、それだけの「力」を持った人間でなければできないことだ。「力」を持っていながら、それを社会のために行使しようとしないのは罪ではないだろうか。
ミラー、ソンタグ、彼ら彼女らが素晴らしかったのは、その作品が立派だからでも、発言する内容がすばらしかったからでもない。(いや、もちろんそれもあるんだけど、それよりも更に、ということ)常に「自分たちが暮らすこの社会に対し発言し続ける責任を全うした」ということではないだろうか。「声を上げる」ということ、それは思ったほどに簡単なことではない。特に、自分の発言が世の中の空気と相反する場合には。だが、だからといって口をつぐんでいるのでは、一体、何のために手にした力なのか。
その力は、何のためのものか。何に使うために与えられたものなのか。それを一度考えてみて欲しいな、日本の臆病な著名人の皆さん。
公開日: 火 - 2月 15, 2005 at 06:38 午後