先生を殺す
・・そういう生徒もいるだろう。と思うのは間違いなのか。
寝屋川で、17歳の少年が、自分の卒業した小学校で教師を死傷した事件が起こったね。また通り魔的なものなのか、と暗然としたけど、そうではないようだ。自分が小学生の頃にいじめを受けていたのに助けてくれなかった、それを恨んでいた、ということらしい。当初、とある先生の名前を告げて中にはいったので、その先生に恨みがあるのかと思われていたけど、そういうことでもなく、特定の教師の名前を挙げているわけではないようだ。ということは、つまり「この小学校へ」あるいは「先生というもの全体へ」の恨みということなのだろうか。
亡くなった先生は熱血タイプだったそうで、生徒からも慕われていた、という。ひょっとしたら人違いで殺されたのかも、と当初思われていたこともあって、この先生に対する同情の声はずいぶんと多い。そしてそれがそのまま、この少年への批判的な目になるような気がする。——かわいそうに、教え子に殺されるなんて。そういう声は多い。だが、我が家では少しだけ見方が違っていた。大変不謹慎なのを承知の上で敢えて書いておく。「この殺された教師が、少年が恨んでいた相手だといいね」・・それが我が家での感想であった。人違いで人殺しをしてしまうなんて、あまりにかわいそうすぎる。ちゃんと目的を果たしてから捕まったのならよかったね。そう思ったのだ。
この少年がどういう小学生であったのか知らないし、そういう意味ではこの発言はものすごく無責任である。が、「殺された教師はかわいそう」という意見も、同様に無責任な発言の一つであって、そういう意味ではどちらも同じ程度に無責任な声の一つでしかない。ならば、無責任ついでにいってしまおう。——全くの逆恨みなら少年が犯した罪は本当に取り返しのつかないものだ、だがもし少年の恨みが真っ当なものであるなら、この少年が成したことには情状酌量の余地がある。17歳だ。誰だって心底恨みに思う相手について、未成熟な頭でつい「殺してやる」と思ってしまうことはあるだろう。ただ、この少年はそれを相談する相手も、止めてくれる人間も、「じゃあオレも一緒にやってやる」といってくれる仲間もいなかった。そういうことだったんじゃないか。もし、そうした人間が彼の回りにいたなら、事態は違っていたんじゃないか。
一所懸命に子供たちを相手にして、それで恨まれるなんてあまりに理不尽だ。そう思う教師の方はきっと多いと思う。おそらく本当に頑張っている教師もいるのだろう。だが、批判を承知の上で敢えていう。「恨まれる覚悟もない人間が『先生』などやるな」と。——「先生」である。人に「先生」と呼ばれる人間というのがどういうものかわかっているだろうか。それは「師」なのだ。人が生きていく上で大切なものを与え、育む、そういう人間への称号ではないか。——多くの人に「先生」とあがめ奉られる以上、いいことも悪いこともそれ相応のものがあるはずだ。それらをすべて受け止めてやる度量が、「先生」と呼ばれる人間にはあるはずである。それがないような人間が「先生」と呼ばれてはならないはずだ。
たかだか学校の先生にそんな大げさな・・と思うかも知れない。だが、一方で「そんな大げさなもんじゃない」といいながら、一方では尊大な顔をする先生のなんと多いことか。「今の先生は大変なんだよ」としたり顔でいう人も多い。そりゃあ大変だろう。先生というのは「聖職」なのだから。それを引き受けるからには相当な覚悟があったはずだ。そうした覚悟をした上で、「先生」と呼ばれる仕事を選んだのじゃないか。そうだろう?
政治家の先生も、時には暗殺されたりした。医者の先生も、一つ間違えば「人殺し」と呼ばれ恨まれる。「先生」とは、そういうとてつもなく大きな責任を負うものなのだ。学校の先生だって同じだだろう。——全国の先生方の巨大な誹謗を覚悟の上でいおう。
「生徒に殺される覚悟もない人間が先生なんぞやるな」
公開日: 火 - 2月 15, 2005 at 07:13 午後