世界中がそう思っている


自分が普段アクセスする情報の中での常識が世界の常識と錯覚することは多い。
でも、「周りがそう」だからといって「みんながそう」とは限らないんだよね。

うちの娘の部屋(になる予定の空き部屋)には、嫁の本がずらっと並んでいる。今日、1歳4ヶ月になる娘をそこで遊ばせながらつらつら本棚を見ているうちに、ちょっと思ったことがあった。——本棚には、「日本ヴォーグ社」という出版社名がずらっと並んでいる。あれも日本ヴォーグ社、これも日本ヴォーグ社だ。はっきりいって、まっっっっっったく聞いたことのない出版社である。

が。どうやら嫁の話などを聞いていると、この日本ヴォーグ社というのは、編み物とかの分野では有名な出版社なのであった。オレはこれでもかなり雑多に本を読む方だと思ってたけど、こんな出版社、嫁と一緒になるまで知らなかったよ。

だけど、これは実はどの世界でも同じなんだろうね。例えば、オレは今までにアスキー出版局やら技術評論社やら秀和システムやらといったコンピュータ関係ではけっこう知られたところから本を出してきた。だけど、親に本を送ると、どうもうさんくさそうに見られたものだ。最初の頃などは、「本が出たよ」と持っていくと、「なに、あんたが自分で売らないといけないの?」とか真顔で聞き返されたものだ。どうやら自費出版みたいなものを想像していたらしい。「この業界ではけっこう大手の出版社なんだぞ」と威張ってみても、コンピュータを知らない親からすれば「聞いたこともないうさんくさい会社」に過ぎないのだ。

ときとして、人は自分が普段関係しているごく狭い世界の中での事柄が、「世界中で同じように通用するもの」であるかのように錯覚することがある。——例えば、インターネットの掲示板などで何かケンケンガクガクの論争が起こったりすると、もうまるで「世界中がその話題で持ち切り」であるかのように錯覚してしまう人がいるよね。実は、その掲示板を見ている、ほんの数十人か数百人か数千人か数万人か数十万人か、せいぜいその程度の中での「コップの中の嵐」でしかないのに、「日本中がその話題で持ち切り」であるように思い込んでしまったりする。あるいは、自分の専門的な分野の中での常識が「世界全体の常識」であるかのように思ってしまったり。そういうことって多い。

一人の人間が受け入れることのできる、把握することのできる世界の大きさというのはどれぐらいだろう。——ニュースで世界の情勢などを日々目にしていると、まるで世界中のことを知っているかのように錯覚してしまったりする。だけど、それは実は「日本という小さな国の○○新聞や○○テレビという一企業から見た情報」でしかないんだよね。例えば全く同じニュースであっても、日本のテレビと、米国のテレビと、イラクのテレビでは報道の仕方も解釈も全然違うだろう。それなのに、日本の限られたメディアの情報だけを見て「世界を知っている」かのように思ってしまったりする。

自分というちっぽけな一人の人間が持っている世界など、世界全体からすれば吹けば飛ぶようなちっぽけなものなのだ。自分が見ていること、それは世界全体ではなく、自分の小さな世界の中で見ていることに過ぎないのだ。その外側では、全く違う価値観が「当たり前のこと」として通用しているかもしれないのだ。そういうことを、きちんとわかる人間に成長してくれよ。なんてことを、娘を遊ばせながらふと思ったのでした。

——とりあえず、日本ヴォーグ社。この会社は覚えたぞ。よしよし。

公開日: 日 - 1月 11, 2004 at 05:09 午後        


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