再び、歴史小説について


昨今のサラリーマンに圧倒的に支持されている(らしい)のが、司馬遼太郎だ。
多くの人が、司馬遼太郎と大河ドラマで歴史を覚えるという。おいおい・・。

歴史小説を読むという人の傾向を考えると、だいたい2つの大きな流れがあることがわかる。それは「歴史小説全般を読む人」と、「司馬遼太郎を読む人」だ。特にサラリーマンの司馬遼太郎率は実に高いそうで、多くのサラリーマンはあれを読んで歴史や生き方を学んだ気になったりしてるそうだ。おいおい。

司馬遼太郎、読みましたよ、高校生ぐらいの頃。あれは若い頃に読むにはうってつけの小説だと思う。なんというか、人生がパッと明るく開けるような爽快な気持ちにさせてくれる。——が、その後さまざまな歴史小説を読んだり(小説でない)歴史物を読んだりしていくうちに、司馬遼太郎のほとんどが「小説」であることを思い知らされる。そう、よくも悪くも小説なんだよね。事実とはかなり違う、創作なのだ。

司馬遼太郎の小説は、ある種の「スーパーマン物語」だ。歴史は、ごく一握りのスーパーマンによって作られた、そういう歴史観から書かれている。そりゃ、初期の忍者小説なんかはそれが面白かったんだけど、高杉晋作だの坂本竜馬だのを同じ調子で描かれちゃたまらない。——いや、小説なんだからそういうのもありなんだけど、司馬遼太郎の罪は「それが事実である」と思い込んだ読者を大量生産してしまったことだ。

司馬さんは、自分がそれほどお偉い歴史の大家に祭り上げられようとは思ってなかったに違いない。だけど、ふと気づけばそうなっちゃった。「あの司馬遼太郎がこう書いてあったんだから史実に違いない」なんてみんな思うようになっちゃった。まぁ司馬さんに罪はないといえばないんだけど・・。

司馬遼太郎以外の人の作品をいくらかでも読めば、司馬作品が「小説」なんだってわかるはずなんだ。例えば、隆慶一郎。池波正太郎。藤沢周平。山本周五郎。永井路子。南原幹雄。白石一郎。まだまだいるぞ。「なるほど、同じ事件、同じ人物でもこんなに違うのか」ってことがわかれば、「歴史にはさまざまな見方がある」ことにすぐに気がつく。

ただなぁ、いわゆる「司馬遼太郎ファン」ってやつの多くは、司馬遼太郎以外の歴史小説なんて読まないのだ。ここに最大の問題がある。なぜ、彼等は司馬遼太郎しか読まないのか。それは、「司馬遼太郎の小説がビジネスマンの生き方を教えてくれる」と信じている(らしい)からだ。そう、彼等は歴史小説なんて興味ないのだ。読んでもビジネスマンの役には立たないから。(←このへん、「他の歴史小説も読んでるまっとうな司馬遼太郎ファン」の皆様、ごめんなさい)

・・・困った。
こうして、司馬遼太郎と「NHKの大河ドラマ」だけで頭の中に歴史が造られていく人間が増えていく。そして、同じ見方の人間ばかりになり、それが当たり前となっていくにつれ、そこから外れた見方の人間を異端視し排除する傾向が強まっていく。——「そんな大げさな」と思うだろうか? 昨今の政治屋さんだのの歴史認識なんかを見るにつけ、オレの不安は強まる一方なんだよ。ねえ、どうすればいいと思う?

・・・とりあえず、NHKの大河ドラマで隆慶一郎でもやってもらおうか。(無理だってば)

公開日: 火 - 10月 28, 2003 at 03:16 午後        


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