転落事故の顛末


東名高速の女児転落事故のその後を追跡した記事が載っていた。

今朝の朝日新聞に、しばらく前に起こった東名高速での女児転落事故に関するその後の記事が掲載されていた。——新聞やテレビっていうのは、起こったことを起こったときに報道するのは得意だけれど、それを後々まで追いかけて伝えるのは苦手だ。そしてそのことは、読者や視聴者である我々もそうだろう。事故なんて比較的地味で面白みもなく、似たようなものが後から後から次々と起こるとあっては、一つの事件を後々まで興味を持ち続ける人などほとんどないに違いない。

この事件は、3月に起こったものだ。東名高速を走行中のバスから女児が誤って転落し死亡したという事故、覚えていることと思う。女児は落ちたときに即死したというわけではなく、後続車に引かれた可能性が高いということから、事件として捜索をしていたようだ。

そして、そのバスの後を走っていて、転落した女児を轢いたと思われる、最も有力な容疑者は、トラックの運転手だった。彼は取り調べを受け、その4日後に自殺した。記事は、その死んだ運転手の周辺を取材したものだった。比較的内向的で静かな性格だったらしく、激高するような姿を見たことがないという。性格的に真面目だったのか、取り調べに対し「何かを轢いたような気がする」と轢いたことを認める証言をしていたことから「ひき逃げ」として取り調べをしていたらしい。

実は、非常に似たようなケースが前にもあった。車で連れ去られた少女が手錠をかけられた状態で路上に放置され、その後通りがかった車に轢かれて死亡するという事件だ。このケースでも、轢いたのはトラックの運転手だった。そして、彼もまたその後、自殺した。やりきれない。なにがやりきれないといって、どちらも「トラックの運転手」だったということが、だ。

長距離トラックの運転手たちに取材すると、高速で「道路を見て運転することなどあり得ない」という。そんなことをしていたらとっさの判断に対応できない。だから道の前に人間が倒れていたとしても気づくことはまずないし、轢いたことさえほとんどわからないのではないか。多くの運転手はそういっていたそうだ。それはそうだろう。自殺した2人の運転手もそうだったに違いない。だが取り調べを受ければ、「そういわれれば、何かを轢いたような気がしたかも知れない」と思ったかも知れない。そしてそれを認めてしまえば、事故ではなく「ひき逃げ」になる。職業運転手としての彼の人生はそこで終わるのだ。

取材した記者は、現場の東名高速を実際に走ってみた。80キロで走る記者の横を何台ものトラックがものすごい勢いで抜き去っていったという。その姿だけを見れば、「だから乱暴な運転のトラックは怖い」と考えるかも知れない。だが積載量ぎりぎりの荷を積んで夜通し走る運転手の方が「怖い」ことは百も承知しているはずだろう。それでもとばさないといけないのだ。そうしないといけない理由がある、だからとばすのだ。遊びで暴走行為をしている連中とはわけが違うのだ。彼らは食うために、女房子供を食わせるために、体を張ってとばしているのだ。そうじゃないか?

事実というのは、難しい。「高速でバスから女児が転落し死亡した」というニュースだけしか耳にしていなかったら、その事件がその後どんな顛末になったか知ることはほとんどないだろう。そして、最初の一報だけをもって、この事件の事実はこうだったと思ってしまうだろう。「亡くなった女の子、かわいそうにね」で終わっていただろう。——だが、この事件の被害者は本当にこの少女だったのか。もちろん、亡くなった彼女はかわいそうだし遺族の方の心中も察するにあまりある。だが、僕にはどうしても「自殺した運転手こそ本当の被害者」に見えて仕方がないのだ。

・・この記事が出るより少し前のことになるけど、読者からの「声」の欄に、停車中のアイドリングについての投書が掲載されていた。以前、「環境問題を考えれば、長い時間停車しているときはエンジンを切るべきだ。トラックなどがアイドリングしているのをよく見るが、なぜ停車中はエンジンを切らないんだ」という停車中のアイドリングを批判する投書が掲載されていたのだけど、それへの反論だった。

投書した人の知り合いには運送業のトラックの運転手がいる。彼は1日12時間、車を運転し続けている。だから次の仕事まで数十分でも時間が空いたなら、エンジンをかけたままクーラーをきかせて仮眠をとる。そうしなければとても体が持たないという。——誰もが人間的な労働環境で働けるわけではない。劣悪な労働環境で働かざるを得ない人間もいる。エアコンを効かせた車内で束の間の仮眠をとることさえ「環境のため」と否定されたら彼らはどうすればいいのだ。「ストップ・アイドリング」を叫ぶ人たちは、果たして彼らのことをどう考えるのだろうか。すべての物事には表と裏がある。表だけを見ていては、世の中の本当のところはわからないのだ。

多くの人は、日頃伝えられるニュースのほぼすべてを、表層的な「表の面」だけを耳にして理解した気になる。それですべて終わった、済んだ気になる。だが、そこから見えなかった部分を知ることで、その事件がまるで別の形で見えるようになることもある。——もちろん、すべてのことについてあらゆる面を知ることなど不可能だろう。だけど、少なくとも伝えられる「表の面」だけをもってすべてを知ったつもりになることだけは避けなければいけない。そのことを強く思った記事だった。

・・亡くなった少女と、自殺した運転手と、そしてすべての「責任を取らせるために犠牲になった、一番弱い場所で生きていた人間」たちへ。合掌。

公開日: 日 - 5月 22, 2005 at 05:57 午後        


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