「信じる」の大安売り


やっすい言葉には、やっすい値打ちしかない、というお話。

久々に、しゃべり場話(笑)。今回は、「僕ら、僕たちって変でない?」とかいうことで、漫画家志望の子が「集団に属することの危険」ということについてテーマを持ち出して来た。——が、メンバーの中で、おそらく「どの集団にも属さず、個を貫いている」タイプの人間は3人ぐらいしかいなくて、他はみんな、何らかの形で集団に属していて、それが自然なことと思っている人間たち。当然、「集団に属さないのは、友達を信用できないからではないか」「心を閉ざしているんじゃないか」という話になってしまうのであった。そして、その議論そのものが、見ようによっては「集団に属することの危険」を如実に表していたのが面白かった。——ただ、そのことに気づいているメンバーはいなかったようで、この点が残念だった。ここに気がつき、「おい、待てよ。オレたちが今やってることって、これこそが『集団の陥る間違い』ってやつなんじゃないのか?」と誰かが問題提起できたら、もっと面白い発展をしたのだろうにな。

特に「友達との集団」というものを考える時、必ず「信じる」というような言葉が使われる。「お前は友達を信じてない」とかね。この回でも、そのことが問題となっていた。「なぜ、友達のことをもっと信じられないの?」的な、ね。そうやって、信じているか否かを人は集団への踏み絵にする。提言者の彼女には、それが受け入れられなかったのだろう。

日本では無条件に「信じる」ことが立派であると、正しい姿であると思われて来た。だが、多くの人が口にする、お手軽な「信じる」という言葉は、たいていの場合、大して信じてもいないときに使われていたりする。「友達を信じていたのに、自分のいないところで自分の悪口をいっていた」とか「信じていたダチに彼女を奪われた」とか「信じていたのに、金を持ち逃げされた」とかいっては、「裏切られた」という。「悪口を言われたり、彼女をとられたり、金をとられた程度でお前は『裏切られた』と思うのか。お前のいう『信じる』というのは、その程度のものなのか」と誰も思わないのか?

例えば、自分の信じていた友人が、自分の財産を奪い、家に放火し、親や兄弟を殺し、恋人を強姦し、自分を殺しても、「お前のことを信じている」といって笑って殺される——「信じる」というのは、そのぐらいの覚悟がなければ口にしてはならないものではないかと僕などは思っていた。だが人々は、口先だけの「信じる」という言葉を乱発し、お互いに信じてもいない「信じる」という言葉を交換し合い、お互いが仲間であることを確認する程度のために「信じる」を安売りする。それは、もともと信じてもいない「信じる」だからこそできることだ。

だからこそ、僕は人に対して安易に「信じる」という言葉を多用する人間を信じない。信じるということには、それこそ自分の一生を賭けるぐらいの勇気が必要なのだ。言葉を乱発する人の言葉には値打ちがない。安易に言葉を使わない人の口にする言葉だからこそ、重みがある。毎日のように女の子に「愛している」という男の「愛している」と、生まれてから今まで決してそんな言葉など口にしなかった男が初めて口にした「愛している」と、その重みは同じと思うだろうか?

今は、安っぽい「信じる」が反乱している。同じ歌手が好き、服の趣味が一緒、遊んでて「あ、一緒一緒!!」と思う、その程度で「信じてる」と思ってしまう。もちろん、それが悪いってわけじゃない。だが、世の中にはその程度の安っぽい「信じる」を乱発できない人間もいるのだ。一緒にいて楽しい、同じ趣味で同じようなことを考えている、でも「だからそれで相手を信じているとは、私はまだ言い切れない」という人間だっている。どちらがよいとかどちらが正しいのではなく、それもまたその人の有り様なのだ。「この人はそういう人なんだ」ということなのだ。

だが、多くの人は、なぜかこの「信じる」ということに関しては、そうした「さまざまな有り様」を認めない。「とりあえず、相手を信じてみないとダメだよ」などと安易に口にする。「とりあえず信じる」ことができない人間だって世の中にはいる。そしてそういう人間の方が案外、信じるにたる人間だったりするのだよね。

「この人の『信じる』は、自分の『信じる』とは、その値打ちが違うのかも知れない」——そういうことを誰しも一度考えてみるべきではないだろうか、と思ったのでした。悪貨は良貨を駆逐する。乱発される大量の安い「信じる」によって、滅多に口にされない重みのある「信じる」は駆逐されてゆく。だからこそ、その他大勢とは違う価値観に対し、僕らはもっと注意深くあらねばならない。少なくとも「その他大勢と違うから」という理由でそれを無条件に「誤りである」と判断することがないようにしなければいけない、と思ったのでした。

提言者の彼女、君は間違ってはいないよ。ただ、いい視点を持ってはいても、それを的確に表現する方法がまだ見つかってないだけだ。君は漫画家志望だそうだから、いつの日か作品の形で自分の思いを表現できる時が来るだろう。今は、君は理解されない。それでいい。高く飛ぶには、長い助走が必要なのだ。

公開日: 土 - 12月 4, 2004 at 05:27 午後        


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