お話 「一つだけ願うとしたら」


たまにはオリジナルのお話でも。悪魔と、契約した男と、その娘の物語です。

 

「一つだけ願うとしたら」
 
「・・誰だ、私を呼んだのは?」
 もうもうとたなびく煙の中から聞こえてくる声に、彼は思わず叫び声をあげるところだった。——成功した。手元の古びた本と煙の奥から次第に見えてくる人影とを彼は交互に見比べた。悪魔だ。どうやら本当に悪魔を召還することができたようだぞ。
「どうやら、あなたが私を呼びだした人のようだな」
 悪魔は彼を見つめると、おごそかにいった。「私と契約をしたいのか? 契約をすれば、あなたの願いを一つだけ、かなえてあげよう。ただし、願いがかなった暁には、あなたの魂をいただく。よろしいか?」
「はい、かまいません」
「魂を受け取れば、あなたは天国に行くことも、生まれ変わることもできなくなる。この先、あなたの存在は消えてなくなるのだ。それでもかまわないのだな?」
「ええ、覚悟はできています」
「ふむ。——では、契約をしよう。それで、あなたの願いは何なのだ?」
 願い。それは彼の長年の夢でもあった。
 彼には、娘がいた。来年には小学校に入学するその娘は、一つだけ彼を悩ませる問題を抱えていた。彼の娘は、言葉を喋らないのだった。原因は判らない、どこかに障害があるのか、あるいは単に精神的なものなのか。しかし、このままではみんなと同じ小学校に進むことさえままならないだろう。一度でいい、娘に「お父さん」と呼ばれたい。それができるなら、魂なぞいらない。
「・・なるほど。では、娘が話せるようにすればよいのだな?」
 悪魔は念を押すと、静かに呪文を唱えた。「・・これで、あなたの娘は話せるようになった。さあ、娘のところへいって確かめてみなさい」

 ところが——。
 悪魔の意に反して、彼の娘は依然として話すことができないのだった。彼が何と話しかけても、身振り手振りで伝えても、娘は口を開かなかった。彼と、そして悪魔は愕然とした。
「そんな莫迦なことが・・。彼女は、話せるはずだ。障害も何もない、問題はすべて解決したのだ」
「話せるはずだ、って、現に一言も口をきかないじゃないですか」
「そんなはずは・・今までこんなことなど、一度だってなかった」
「とにかく、なんとかして下さいよ。約束したじゃないですか。あなた、悪魔なんでしょ!」
 彼にいわれるまでもなく、これは悪魔の沽券に関わる問題だ。願いをかなえるのに失敗した悪魔など聞いたことがない。
 悪魔は自分の名誉にかけて娘を話せるようにしなければ、と思った。ありとあらゆる法術が使われ、知り合いの悪魔から、悪魔界の重鎮の意見や古文書などあらゆる資料を探り、対策を練った。——だが、彼の娘の口を開かせることは依然としてできないのだった。

 ・・長い年月が過ぎた。
 娘は一度も口を開くことなく、学校を卒業し、成人した。口をきかない以外には何一つ問題はなかった彼女は、小さな会社の事務に職を得ることができた。だが「口がきけない」というハンディのためか、結婚することもなく、父親である彼のもとでひっそりと暮らし続けた。
 ——更に長い長い年月が過ぎ、彼は老い、そして娘も老いていった。契約を果たさなければならない悪魔はなんとか彼と彼女の寿命をぎりぎりまで延ばそうとしたが、それも限界があった。やがて彼は死の床についた。
 枕元に現れた悪魔に、彼は疑問をぶつけた。
「・・結局、私はどうなるのでしょう。私の魂は、あなたのものになるのですか?」
「いや、魂はいただかない」
 悪魔は悲しげに首を振った。「結局、私はあなたの願いをかなえることができなかった。契約を果たすことができなかった。約束しよう。あなたの魂は、そのまま天国に召されることになる」
「そうですか。——だが、別に天国にいけなくてもいい。たった一度でいいから、娘の声を聞きたかった・・」
 その時。——静かにドアが開き、既に初老となった彼の娘が入ってきた。娘は彼の枕元に跪くと、彼の耳元で静かに、初めて口を開いた。
「お父さん」
 彼は驚愕し、娘を見つめた。「・・今のは、お前の声かい?」
 彼女が頷くと、彼はにっこりと笑った。「思った通り、すてきな声だ。その声が、聞きたかった」——そして、彼の魂は、静かに天に旅立った。

「・・あなたは、話せたのですね」
 悪魔は、彼女に語りかけた。本来、悪魔は契約者以外に姿を見せてはいけなかったのだが、どうしても悪魔は彼女に聞いておきたかった。
「はい。話せました」
「いつから?」
「あなたが、父と契約をした、そのときから」
 娘の言葉に、悪魔は息を呑んだ。「では、あんな小さな頃からずっと、あなたはわざと黙り続けてきたのですか・・」
「・・あの日、私は、父とあなたが契約するところを見ていたのです」
 彼女は、静かに入り口のドアを指出した。「あのドアの隙間から。不思議なことに、そのときの私の目には、あなたの姿が見えた。あなたの声も聞こえた。子供心に、父があなたに、何かとても大切なものと引き換えに、私の声を得ようとしていることがわかったのです」
「——それでわざと声を?」
「・・父は、一番大切なものと引き換えに私に声をくれました。だから私は、私の一番大切なものと引き換えに、父が失ったものを取り戻そうと思ったのです」

 ・・残る短い人生を彼女は一人ひっそりと過ごした。それから——それから先は、どうなったろうか。あの悪魔のみが知っていることだろう。

公開日: 木 - 1月 6, 2005 at 05:59 午後        


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