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なぜかこだわってしまう物のページ


※ここは、どういうわけかこだわってしまう身の回りの物についての雑記です。





「やはりカメラはメカニカルなのだ」

別にカメラ愛好家というわけでもないのだけど、どういうわけかこだわってしまうのがLEICAなのだ。昔はリコーやニコンなんぞを使ったりしていたものの、知り合いの編集者にLEICAを触らせてもらってからとり憑かれてしまった。

 うちにあるのは、R6というタイプ。一眼レフタイプのものだけど、もちろん完全メカニカル。露出計は内蔵しているが、他はオートフォーカスも何もない。もちろん、電池が切れても全く関係なく動く。本当は、L3やL5というやつも欲しいんだけど、何しろ金のかかるカメラなので当分は買えそうにないです。

 メカニカルシャッターというのは、一度触ってしまうともうダメだねえ。電子シャッターのカメラなんてとても触れなくなるわ。あの「カシャッ」って感覚が指に記憶されちゃうんだろうなあ。

 こいつは、バブルの頃に買ったのでえらい高い買い物になってしまった。今だと標準レンズとあわせて30万以下で手に入るんだよ。だけど、なにしろレンズ一本でン十万円という代物だから、未だにレンズは標準的なズーム一つだけなのだった。「宝の持ち腐れ」の代名詞と化しておるのであった。



「OMEGAの時計は月にも行ったのだ」

昔から「カメラはLEICA、時計はOMEGA、電卓はHP」というのが憧れだったんだよね。その中で一番手に入れたのが遅いのがOMEGA。どうも、腕時計に高い金を払うというのは、ついバブル期に腐るほどいたキンキラのロレックスにいちゃんを連想して、買う気になれなかったんだな。

 使っているのは割とOMEGAの中ではスタンダードなSpeedMaster。新古なんでけっこう安かったけど、傷もほとんどなくとっても気に入ってる。新品なら20万以上するそうで、けっこういい買い物した。

 もちろん、デジタルではないし、クォーツでさえない。自動巻きなんだよー! 防水も生活防水程度だし、日付けは小の月には1日進めないといけないし、1日に2〜3秒ぐらいはずれてくる。だけどこれでよい。

 クォーツやデジタルでは技術力の高い会社はたくさんあるけど、全てメカニカルの自動巻時計ということでは、OMEGAは最高技術だと思うんだよね。映画にもなったけど、アポロ13号が事故を起こして地球への再突入をしなければいけないとき、HPの電卓で軌道計算をし、OMEGAの時計で時間を測って見事帰還できた、なんて話を聞いた。ほんとかどうか知らないけど、そういうところにロマンを感じるのだ。



「HPの電卓は象が踏んでも壊れない」

ぼくの「三種の神器」のうち、最後の1つがHEWLETT PACKARDの電卓。うちには19Bと28Sがある。

 どうも「HPの電卓」というと、最近はPCまがいのLX200のようなものしか知られてないような感じなんだけど、その昔、HPの電卓といえば技術屋さんのあこがれだったのだ。特に28Sは、ほとんどコンピュータって感じのもので、アセンブラみたいなプログラムを組んでたいていの計算はすることができたんだ。

 なによりHPの電卓は丈夫だ。独特の二つ折りスタイルで、この上を10tトレーラーが通過してもびくともしない、って感じ。象が踏もうがチラノザウルスが踏もうが大丈夫なのだ。

 キーもすさまじく硬い。慣れない人間は突き指するんじゃないかと思うぐらいに硬い。そうした造りに、質実剛健な技術屋のこだわりを感じるんだね。

 電卓と一緒に、なぜかプリンタもある。これが赤外線通信で印刷してしまうという代物なのだ。なにしろHPの電卓は、たかが電卓のクセにLANを組んでしまったりするツワモノなのである。−−でも、もうこういう電卓は世の中に流通してはいないんだろうなあ。



「大きなのっぽの古時計なのだ」

 2003年に、千葉市の若葉区というところに転居した。それまでのマンション暮しから、ようやく一戸建てへとバージョンアップしたのだ。

 一戸建てとなると、やっぱり家具も違ってくる。特に、自慢するわけではないけど(自慢だけど)LDKが合計18帖ちょっととかなり広くなったので、それまでは「絶対無理!」と諦めていたものも置けるようになったのだ。

 で、「広いリビングになったらぜひ置きたい、というものって何だろう・・・」と思った時、ふと思い浮かんだのが大時計だった。「大きなのっぽの古時計・・・」の、あの大時計ね。——別に、本気で買うつもりはなくて、なんとなく「あったらいいなあ」ぐらいだったんだけど、たまたま近くの家具屋に出かけた折に、出会ってしまったのであった。

 ドイツTransalpina社の堂々たるホール時計。高さ2メートル8センチ。8日巻の重錘式時計。3つの重りの力だけで一週間動き続ける。・・まともに買おうとすれば百万という値段になるのだけど、その店に置かれていた彼は、もう長く放置され、あちこちにひび割れ塗装ははがれ落ち、とても売り物にならないぐらいになっていたのでした。捨て値で置かれていたそれはしかし、まさに我が家にやってくるためにそこに置かれていたのだ、と直感したのでありました。

 時計というのは、要するに実用品なわけで、簡単で正確で手間がかからない、それが多分、すぐれているものなんだろうと思う。だけど彼は、1日に数分はずれるし、チャイムの音や振り子の具合など、ほとんど職人まがいの微調整をしながら使わないといけない。場所も食うし、捨て値とはいえオメガの腕時計などよりはるかに高かった。

 だけど、15分おきに彼が奏でるウエストミンスターのチャイム、毎時おごそかに鳴る時報のチャイム、それがもたらしてくれる安らぎは他のどんな時計にも演出できない至福の時間なのだ。もし、時計という道具が「私たちの過ごす時を演出してくれるもの」であるなら、彼以上にすぐれた演出家はきっといないだろう。

 そして、今、我が家にあるすべての時計の中で、私が死んだ後、更には私の娘が年老いた頃も、今と変わらずに我が家で時を告げ続けているのは、彼だけだろう。いや、たとえその頃にはもう時を告げなくなっていたとしても、彼は今と変わらず我が家の一員でいることだろう。

 そういうものが、家の中に一つぐらいあってもいい。そうじゃない? 自分の子供の代、孫の代まで受け継がれるものの一つぐらいはあってもいい。そう思えば、ずいぶんといい買い物をしたという気にもなろうってものじゃないか。



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